寄稿 「ガ ネ フォ」(GANEFO)《新興国競技大会》に出場した水球チーム  村上(本郷)順三 先輩

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寄稿 「ガ ネ フォ」(GANEFO)《新興国競技大会》に出場した水球チーム  村上(本郷)順三 先輩

 寄稿 「ガ ネ フォ」(GANEFO)《新興国競技大会》に出場した水球チーム   村上(本郷)順三 先輩 

 

 「ガネフォ」とは、第18回東京オリンピック開催の前年(1963年)11月にインドネシアのジャカルタにて、スカルノ大統領が開催した国際スポーツ大会「Games of the New Emerging Forces」を略しGANEFO『ガネフォ』と言い、日本語に訳すと「新興国競技大会」です。 

 この大会はソ連・中国などの共産圏が中心となり、アジア・アフリカ・アラブ諸国の新興国が多く参加した「国際スポーツ大会」です。
なぜ、このような国際スポーツ大会が開かれたかと言うと、東京オリンピック開催の2年前の1962年にインドネシアで開催された第4回アジア大会において、インドネシア政府(当時 スカルノ大統領)がイスラエルと中華民国(台湾)を招待しなかった事がきっかけとなり、IOC(国際オリンピック委員会)が第4回アジア大会を正式大会として認めないとの方針を表明し、そして翌年の1963年4月にIOCがインドネシアのIOC加盟国としての資格停止(オリンピック出場停止)を決議しました。そのため、インドネシアはこの措置に対抗して1963年IOCを脱退し、同年4月下旬にソ連・中国を中心とする社会主義国及びアジア・アフリカ・アラブ諸国に呼びかけて、オリンピックに対抗する総合競技大会(新興国スポーツ大会)『ガネフォ』を開催する事を発表したのです。

 ガネフォは、51ヵ国 約2,700人が参加して、1963年11月10日から21日までの12日間インドネシアの首都ジャカルタに於いて開催されました。日本選手団は96名で9種目(水球・陸上・柔道・卓球・フェンシング・バトミントン・ヨット・レスリング・ボクシング)に参加し、メダル獲得数では、日本は金メダル3個、銀メダル9個、銅メダル9個を獲得し、51ヵ国中6位の成績を収めました。

日本のJOC(日本オリンピック委員会)と 日本体育協会は、インドネシアがIOCを脱退してり、国際競技連盟(IF)が非加盟国の中国と競技を行う事はルールに違反することになる旨を通告したことから、ガネフォに参加しない事を表明していました。しかし、日本政府(当時の池田首相)は、インドネシアとの間の戦後賠償問題処理の観点や将来に向けたインドネシアの経済発展に期待していた事から、スカルノ大統領との良好関係継続の方向性を取っており、日本選手団派遣を切に希望していました。そういう状況下に於いて、私達「ガネフォ水球チーム」は頭山立國氏(ガネフォ選手団長)の正義感に共鳴すると共に、日本政府の考え方に賛同して、ガネフォに参加する事としました。

 しかし一方、国際水泳連盟からは、日本水泳連盟傘下の選手が出場したと言う誤解を招きかねないので、そのような事にならないように私達は日本水泳連盟に脱退届を提出して個人の資格で参加し、チーム名も「58クラブ」から「東京クラブ」に変更して参加する事にしました。ところが、日本水泳連盟は、私達水球メンバーを日本水泳連盟から除名処分にしました。それでも私達は日本国の為に正々堂々と政府の方針に従い出場しました。その結果、インドネシアのスカルノ大統領は大変喜んでくれました。また、インドネシアの日本大使館の人達を始め、在住日本人の方々や日系企業の人達からも非常に喜ばれ、よく来てくれたと感謝もされました。

 ガネフォ日本選手団の参加により、翌年開催された東京オリンピックには世界から過去最多の93ヵ国が参加し、前回のローマオリンピックの83ヵ国を上回り、大成功であったとメディアは報じました。我々のガネフォへの参加が、微力ながらも貢献できたものと自負しています。
 しかし、ガネフォの参加問題や政治的問題をめぐってインドネシアと北朝鮮が、東京オリンピックへの参加意思を示していたにもかかわらず、参加できなかったのは、とても残念な事でした。
その後、1965年9月30日にインドネシアで起きた軍事クーデターによりスカルノ大統領が失脚し、また中国でも文化大革命の影響があり、その後ガネフォは自然消滅してしまいました。また日本に於いてもガネフォ役員・選手等96名の集まりは、2周年祝賀会が目白の椿山荘で行われた以降は、開催されなくなりました。

 しかし、私達水球チームの団結は固く、60年以上過ぎた今でも、ガネフォ会は存在しています。ただ、ガネフォ会の開催とガネフォに関する本の出版は60周年をもって終了する事にしました。その理由は、ガネフォに一緒に行った同志の内、キャプテンだった菅久尚武及び浜野武人・田中信義・房野康滋の4名がすでに他界している事、その他介護老人ホームや病院に入院している者もおり、連絡がスムーズに取れなくなった事等で、歳月の流れを痛感しております。

 半世紀以上過ぎた今、参加した水球チームを始め、ガネフォ選手団全員の国家的偉業が将来の国益に叶い、歴史に留めることが出来た事を喜んでおります。なお、ガネフォ水球チーム全員が日本水泳連盟への完全復帰が認められたのは、日中国交正常化が結ばれた後の1972年10月の事でした。そうしたガネフォに出場した事を当時も今も 私達は誇りに思っています。

 

ガネフォ水球チーム『東京倶楽部』(12名)

 

氏名 年齢 出身校 ポジション 氏名 年齢 出身校 ポジション
菅久 尚武 26 中央大 バックス 内田 啓一 26 日本大 フォワード
古川 康之 25 中央大 ファーフバック 村川 吉高 26 日本大 バックス
浜野 武人 24 中央大 フォワード 房野 康滋 23 日本大 ゴールキーパー
田中 信義 24 中央大 フォワード 酒井 哲也 23 日本大 フォワード
桑原 和司 26 成城大 フォワード 吉田 稔 26 法政大 ハーフバック
本郷 順三 24 成城大 フルバック 中山 光次 26 法政大 レフリー